今月から野島孝介の対話をお送りします。
野島の靴に関する対話やその他モノづくりに精通する方との対話を広げて行きます。どうぞお楽しみに。
靴をつくりはじめて12年。
スタートが遅かった。
23歳ぐらいまでやりたいことが何もなくて。
25歳ぐらいまでに、ちゃんとした仕事というか一生学べるもの、情熱を向けれるもの
と向き合いたかったんです。
当時から数学と歴史がずっと好きで。
答えは、ひとつであっても
やり方がいろいろ考えられるから暇を持て余さなくていいところが好きでした。
とはいっても学者になる歳でもない。原稿は才能無いなぁ。と。
モノづくりしようと思いました。
それでも、モノづくりは学問に似ているところがあって。
自分の決めたテーマの中で追求しながら、新しいものと古い物を混ぜながら実験を繰り返えす。
そして、出来上がった物を世の中に発表する。
——それで浅草でメーカーにつとめたんですか?
4年間ぐらい洋服の販売員もやってました。
ファッションが好きだったから、洋服の仕立てや、靴に興味がありました。
その中で靴は、安いものではないけど何足も欲しいと思うもの。
さらにファッションの決定的要素であることに気づいていたので、
しっかり取り組めるんではないかと思って。それで自然と興味を持ちました。
会社に勤める前にお金貯めるためにバイトもしてましたよ。
それであるときに浅草に面接に行きました。
実は面接後落とされたのですが、それじゃ困るってなんとかお願いして入れてもらいました。
始めは、靴磨きや仕上げの部分を毎日繰り返しでした。
2年半はとても長くて、そのときも靴が作りたくてしかたなかった。
でも、今思えばメーカーにいたおかげでいろいろなものを見ることが出来ました。
2年半の下積み時代の中では、仕事が終わると勉強しに行くからと残業時間を決めてもらって、
台東区は靴作りが地場産業で、職業訓練校があるのでそこの夜間のクラスに何度か通いました。
当時夜間は無料でしたが、僕が通い終えた頃には希望者が激増して有料になりました。
そこで仲間になる人が出来て、一番出来の悪かった僕はとても刺激を受けました。