対話5

kikkabo スタッフ紹介

◆宇都宮千鶴
大阪府出身。大学卒業後は鉄工メーカーの事務に就職するが、ものづくりへの憧れを胸に退職。靴づくりの学校と並行して吉靴房の靴教室に通ううち、次第に吉靴房の製作にも携わるように。のち、正式にスタッフとして迎え入れられる。

◆水谷洋一
埼玉県出身。ファッションが好きで、浅草の靴メーカーに就職。当時、同じ会社の同僚として、つくりて野島孝介と出会う。野島が京都に吉靴房を立ち上げた後も親交が続き、メーカー退職後は野島の招きに応じて吉靴房の製作スタッフとなる。


吉靴房には、野島孝介のほかに2名の製作スタッフが在籍しています。
今回は、このスタッフたちの眼を通して「吉靴房の製作現場」をご紹介します。


――「靴づくり」の仕事は楽しい!
宇都宮:
そもそも、靴づくりを仕事として続けられるとは思っていなかったんです。吉靴房の仕事を手伝い始めた頃も、そのうち自分も結婚して家庭に入るのかな……と漠然と考えていたくらい。
水谷:
その割に、宇都宮さんが吉靴房に来てから、もう5、6年にもなるんですよね。長いなあ。
宇都宮:
そうなんですよ、当初はちょっとしたお小遣い稼ぎのつもりが、仕事を覚えるにつれて、自分にできないこと、足りないことが見えてきて、きりがなくなってしまって。アレもコレもできるようになりたいという感じで、常に目標があって、仕事はすごく面白いですけどね。
水谷:
僕も製作中が一番楽しいですね。特に僕は、黙々と同じことをやり続けるのが結構好きなんです。
宇都宮:
私はそういうの、ムリですね……。
水谷:
いや、ただ裁断するという作業ひとつとってみても、何十足分をひたすら切っていって、ふと見たら裁断済みのパーツがずらっと並んでる時の達成感というか……。
宇都宮:
よくわからない!(笑)でも、水谷さんがそういうタイプだからこそ、工房内でのバランスというか、役割分担がうまくいっているんだとは思いますよ。
水谷:
でも、最近気づいたんですけど、どうやら僕は普通の人よりも不器用らしいんですよね……。
宇都宮:
……それ気づいたの、最近なんですか?
水谷:
うん。だから、それが仕事をしていく上では結構ストレスで、辛くてもがいている、という面も自分の中にあるんです。ただ、仕事が好きかどうかと問われると好きで楽しくて、絶対に続けていきたいのも確かなんですよ。だから不器用も、なんとかして改善したいとは思ってるんですけど。
宇都宮:
ホント、なんとかしてくださいね……。

 

――「履き心地」へのこだわり
水谷:
僕自身が、足に関して悩みが多いんです。同じように足や靴に問題を抱えて来られるお客様の気持ちもよく分かるぶん、履き心地には気を使いたいと思いますね。
宇都宮:
製作スタッフとして、履き心地にはこだわりたいですよね。リピーターのお客様に褒めていただいたりすると、「それ、私が作ったんだ!」って、密かに嬉しかったりして。
水谷:
ありがたいですよね。ただ一方で、僕としては何も言わないお客様のことも考えながら作っていきたいと思うんです。気付くか気付かないかくらいのわずかな違和感なら、我慢してしまう方もおられると思うので……。
宇都宮:
確かに。製作工程のごく小さいひずみが、後になって履き心地に大きく影響したりしますから、油断できない。手づくりで作っている以上、もちろん一足一足の表情は少しずつ違うんですけど、履き心地の面ではバラつきが出ないよう、全て細心の注意を払って仕上げています。
水谷:
どんな方にも違和感なく、気持ちよく履いてもらうことを目指したいですよね。すごく難しいことではありますけど。
宇都宮:
そうですね。靴づくりって、『靴』というこれだけの小さい空間の中なのに、できることがものすごくたくさんあるでしょう?そういう技術のひとつひとつを追及していくと、日々の製作の中にも感動があります。そういう意味では、自分は幸せな仕事に巡り合ったなあと思いますね。

 

――吉靴房スタッフが描く、未来の展望
水谷:
ただ、実は、結構仕事自体はハードなんですよ。ありがたいことですけど、常に忙しくて忙しくて……。
宇都宮:
現状、特に月末なんかは3人がフル回転してもオーダーのお品物を揃えるだけで精一杯という感じですね。
水谷:
つらくても仕事を辞めようとは考えないんですけどね。野島に京都に呼んでもらったとき、僕はちょうど浅草の靴メーカーを辞めてぶらぶらしていた頃でした。でも、例えば、まだメーカーに勤めていた時に呼ばれていたとしたら、僕は会社を辞めてでも京都まで来ただろうと思うんです。それくらい、自分にとっては大事にしたい仕事でもあるし。
宇都宮:
それって、野島だから、という部分も大きいんですよね。私たちにとっては上司であるだけじゃなく、先生でもあり、先輩でもあり、友達みたいでもあって……。
水谷:
そうですね。それで、吉靴房のため、野島のために何ができるかって考えると、今後はもっと自分たちスタッフが肩代わりできる作業や工程を増やして、
野島自身がもっとフリーに動けるようにするのが理想だと思うんです。
宇都宮:
うん。実際の製作工程を補佐することが私の役目だと思うし、そこを任せてもらえることが喜びでもあるんですよ。だから、私自身は決して前に出るタイプではないですけど、吉靴房の靴はもっと皆さんに認めていただきたいし、多くの方に長く履いていただきたい!そのために、私自身の技術も磨いて、吉靴房の活躍を陰で支える存在になりたいと思っています。

(2012年8月28日 吉靴房 工房内にて)

対話4 野島孝介の対話

—“靴の歴史”、2つの転換期

靴の歴史の出発点は、一枚の革や布で足をぐるりと包み込むように作る「モカシン」や、ストラップの付いたサンダル。古く紀元前から数千年もの長きにわたり、人間の足を保護するために作られていました。

 

こうしたモカシンやサンダルに対して、現在の革靴は、木型を使って成形されたものです。木型が発明された時期は、およそ1400年代~1600年代頃のヨーロッパ。この画期的な発明が、靴の歴史における第一の転換期となりました。木型のおかげで、靴職人たちの仕事の生産性は急激に高まり、同じサイズ・同じデザインの革靴を容易にいくつも作ることができるようになったのです。

 

また、現代においては石油系の樹脂素材を使ったスニーカーが量産されるようになりました。これも、靴の歴史においては第二の転換期と呼ぶべき大きな流れです。スニーカーは発売とともに爆発的にヒットし、今や、世界中のあらゆる世代の人々の間に広まっています。

 

—日本の“履き物”には謎が多い?

ただし、この歴史は、あくまでも西洋の靴の歴史です。日本に西洋式の靴が持ち込まれるのは江戸時代末期~明治時代初期にかけてのことですから、それ以前の日本で“履き物”といえば、草履、わらじ、下駄などのことでした。

 

さて、日本古来の履き物には、靴を作る側の視点で見ると不思議な点がいくつかあります。たとえば、前述の草履、わらじ、下駄――、これらには、左右の区別がありません。左右の足の形を考えれば、履き物のほうも左右を区別して設計したほうが履き心地も良いと考えるのが妥当でしょう。それなのに、です。

 

日本人は元来、ものづくりにかけては器用で気遣いの細やかな民族です。それなのに、私たちの先祖は、どうしてこの不便な履き物に甘んじてきたのでしょう?この問題に関しては、さまざまな説もあるようですが、真相は闇の中。先祖に直接訊ねることができない以上、真実は、今や誰にもわかりません。

 

-モノには“人の歴史”が宿っている

ただし、単に不便なもの・良くないものがいつまでも長く愛用されるはずもありません。「草履、わらじ、下駄」が、あの形状を保ったまま長く作り継がれたことにも、おそらくは日本固有の理由があるのでしょう。そこに宿っているものは、日本人の生活や文化の歴史と言い換えても、決して大げさではありません。

 

長い年月、人の手をわたって使い継がれてきたものには、人の文化と歴史が宿ります。現代は、こうした文化や歴史も国境を越えて運ばれる時代。私たちが広い世界、数多くある異文化に接してみればみるほど、改めて“自国の文化や歴史の価値に気付く、見直す”という気持ちも湧いてくるものです。

 

-吉靴房の靴は、和装用履き物の「派生」

しかし、残念なことに現代は、たとえ若い世代が「和装ってカッコいい!」と不意に思い立っても、気軽に和装を楽しめる時代ではなくなってしまいました。着方のルールが煩雑で難しい、高価すぎてとても買えない……。日本人の日常の装いとして当たり前だったものは、いつの間にか、現代人の生活環境からかけ離れたものになってしまいました。

 

日本の伝統的な装いを、ほかならぬ日本人自身が纏えない。こんな奇妙な状況にあっては、「正統・伝統そのもの」の流れを汲みながらも現代人の生活環境に歩み寄って設計された「派生型の和服」、「派生型の靴」が、どうしても必要です。

 

吉靴房の靴は、和装に合わせられる「派生型の靴」。これを作り続けることによって、たとえごく一部でも、日本人の営みの記録を後世に残したい――。それこそが、吉靴房の仕事なのです。

 

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吉靴房の靴を、ぜひ、愛着を持って長く履いてください。そこに、あなた自身の歩みの歴史も宿ることでしょう。