対話4 野島孝介の対話

—“靴の歴史”、2つの転換期

靴の歴史の出発点は、一枚の革や布で足をぐるりと包み込むように作る「モカシン」や、ストラップの付いたサンダル。古く紀元前から数千年もの長きにわたり、人間の足を保護するために作られていました。

 

こうしたモカシンやサンダルに対して、現在の革靴は、木型を使って成形されたものです。木型が発明された時期は、およそ1400年代~1600年代頃のヨーロッパ。この画期的な発明が、靴の歴史における第一の転換期となりました。木型のおかげで、靴職人たちの仕事の生産性は急激に高まり、同じサイズ・同じデザインの革靴を容易にいくつも作ることができるようになったのです。

 

また、現代においては石油系の樹脂素材を使ったスニーカーが量産されるようになりました。これも、靴の歴史においては第二の転換期と呼ぶべき大きな流れです。スニーカーは発売とともに爆発的にヒットし、今や、世界中のあらゆる世代の人々の間に広まっています。

 

—日本の“履き物”には謎が多い?

ただし、この歴史は、あくまでも西洋の靴の歴史です。日本に西洋式の靴が持ち込まれるのは江戸時代末期~明治時代初期にかけてのことですから、それ以前の日本で“履き物”といえば、草履、わらじ、下駄などのことでした。

 

さて、日本古来の履き物には、靴を作る側の視点で見ると不思議な点がいくつかあります。たとえば、前述の草履、わらじ、下駄――、これらには、左右の区別がありません。左右の足の形を考えれば、履き物のほうも左右を区別して設計したほうが履き心地も良いと考えるのが妥当でしょう。それなのに、です。

 

日本人は元来、ものづくりにかけては器用で気遣いの細やかな民族です。それなのに、私たちの先祖は、どうしてこの不便な履き物に甘んじてきたのでしょう?この問題に関しては、さまざまな説もあるようですが、真相は闇の中。先祖に直接訊ねることができない以上、真実は、今や誰にもわかりません。

 

-モノには“人の歴史”が宿っている

ただし、単に不便なもの・良くないものがいつまでも長く愛用されるはずもありません。「草履、わらじ、下駄」が、あの形状を保ったまま長く作り継がれたことにも、おそらくは日本固有の理由があるのでしょう。そこに宿っているものは、日本人の生活や文化の歴史と言い換えても、決して大げさではありません。

 

長い年月、人の手をわたって使い継がれてきたものには、人の文化と歴史が宿ります。現代は、こうした文化や歴史も国境を越えて運ばれる時代。私たちが広い世界、数多くある異文化に接してみればみるほど、改めて“自国の文化や歴史の価値に気付く、見直す”という気持ちも湧いてくるものです。

 

-吉靴房の靴は、和装用履き物の「派生」

しかし、残念なことに現代は、たとえ若い世代が「和装ってカッコいい!」と不意に思い立っても、気軽に和装を楽しめる時代ではなくなってしまいました。着方のルールが煩雑で難しい、高価すぎてとても買えない……。日本人の日常の装いとして当たり前だったものは、いつの間にか、現代人の生活環境からかけ離れたものになってしまいました。

 

日本の伝統的な装いを、ほかならぬ日本人自身が纏えない。こんな奇妙な状況にあっては、「正統・伝統そのもの」の流れを汲みながらも現代人の生活環境に歩み寄って設計された「派生型の和服」、「派生型の靴」が、どうしても必要です。

 

吉靴房の靴は、和装に合わせられる「派生型の靴」。これを作り続けることによって、たとえごく一部でも、日本人の営みの記録を後世に残したい――。それこそが、吉靴房の仕事なのです。

 

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吉靴房の靴を、ぜひ、愛着を持って長く履いてください。そこに、あなた自身の歩みの歴史も宿ることでしょう。